学生時代に入会していた人力飛行機研究同好会について記載しています。
旧:人力飛行機研究同好会(略称:人力研、現:人力飛行機研究部)について
現在は都立産業技術高等専門学校(産技高専)にはなっておりますが、旧東京都立航空工業高等専門学校(航空高専)を卒業しています。その在学中に人力飛行機研究同好会というチームに所属させていただき、高専チーム初の初出場(その後連続出場も達成)を果たした経験があります。初出場の時は人力飛行機研究同好会の第2代会長でしたが、5年生の後期にとある理由により、辞表を提出して受理されています。
現在の組織は同好会ではなく、部に昇格して新たな学校での活動となり、その後に色々な社会人チーム(新記録飛行計画BetRecなど)にも参加させていただいた経験があります。
旧人力飛行機研究同好会(現人力飛行機研究部)の歴史
現在は学校組織としても変更になりましたが、当初は東京都立航空工業高等専門学校 人力飛行機研究同好会として1995年に堀田勲氏や高櫻修平氏をはじめとする航空工学科約20名程が賛同し、当時の方々が入学してから約半年で設立したのが始まりでした。
設立当初は学校組織としての認定がありませんでしたので、愛好会からの始まりとなりました。1996年4月の学生総会にて同好会の設立承認案が可決され、同好会として正式に活動が行えるようになりました。顧問として芝沼弘充教授と渡辺静意教授として設立に至り、活動場所も空気力学実験室という場所を使用できるようになりました。
設立当初は顧問以外の教授、学校組織、保護者の同意がなかなか得られず苦労を重ねながらの活動を余儀なくされていました。機体の重要部分の骨組みでもある三菱レーヨン製のカーボンパイプを160万円するものをOBの方々や一部の賛同教授のご協力をいただきながら、80万円で購入することができました。また、当時顧問でもある芝沼弘充教授、渡辺静意教授が立て替えてくださった事もあり、必死にアルバイトをしながらみんなで返済した経緯があります。
しかしながら、Renew The Record(記録更新)というスローガンを決めて出場を目標とする設立者達はくじけませんでした。その結果、1年目から東京都立大学(現首都大学東京)の鳥人間コンテストチームの「MAPPLE」等のチームとコミュニケーションを行うことによって機体設計方法や制作方法等を教えていただくことができました。
初出場後は高専として連続出場の記録や第3位などの記録を更新し、現在は産技高専 荒川キャンパス での活動を行い、出場を果たしたりと精力的に活動をしています。現在では都立産技高専 荒川キャンパスでの活動が中心となっています。
初出場への挑戦
同好会の当初から同好会では鳥人間コンテストへの初出場を目指して活動を始め、初出場へ向けての挑戦も始まりました。当初は1997年度大会への出場を目指していましたが、書類選考において不合格という結果に終わりました。理由としては主に都立大学鳥人間コンテストチーム「MAPPLE」の設計図を真似たものであった事も影響していた可能性もありました。
1997年4月に私も入学して同好会へ入らせていただきましたが、当時の組織として制作班と設計班とが完全に分離し、製作現場を知らない人が設計を実際にしていた経緯などもあり、この部分に関しては製作的な環境や技術的な観点から考えると無理が生じる結果を招いてしまう可能性があると考えていました。
最終的に設計班と製作班の間で意見の言い合いが発生したりと対立的な部分なども生じていた事もあり、1998年度大会への出場も書類選考落ちという結果にも終わりました。理由としては主に先尾翼機の神奈川工科大学「カナード」という機体を真似たものだった事も影響していた可能性もありました。
この結果後に1997年の航専祭時に第1代会長:堀田勲氏の推薦を受けて1998年に第2代会長として任命、就任するに至たりました。
同好会の組織改編とフライト本番へ
今だからこそ言えることでもありますが、当時は自分が同好会へ入って1年間過ごしてきたことによって、思っていたことを実際にやってみようと思った事が根幹にありました。その部分というのは設計や製作には上下関係は関係なく、誰もが気軽に意見を言うことが出来る環境を作り、検討も出来る部分もあるし、良い部分は積極的に取り入れていく環境を作るという事でした。
実行するためにはまず班という制度は必要なく、基本的に上下関係もいらないという事を宣言しました。この部分は結果として当然設計班も製作班も解散をさせたりと今思えばかなり強固だった感じも否めませんでしたが、抜本的な事をしなければいつまで経っても同じ結果になる可能性があると思っていましたので、自分は申し訳ないと思いながらも仕方がないと思っていました。
初出場時には設立者の先輩が卒業する最後の年ということもありました。設立者の方々が卒業するまでには必ず鳥人間コンテストへの出場を成し遂げたいという気持ちで設計はしましたが、当然専門的な知識に関しては全くのど素人だった事や綺麗な図面と理論や公式ばかりの設計書類を1999年度の書類選考に提出した経緯もありました。実際に自分は今回も駄目だろうと半ば諦めていました。
結果は「合格」という事でした。製作にはCADという新たな技術を導入したりもしていましたが、完全な準備不足に初出場という事が重なり、製作などもほとんど徹夜の状況が続いていた状況でもありました。本当にありがたい部分でもありますが、卒業する当時5年生の方々にも参加していただき、「絶対に飛ばすんだ!」と必死になって製作を行っていました。自分も家に帰ってシャワーを浴びてまた学校へ行くという事もあったり、連続した徹夜などもしていました。今となっては自慢できる事では当然ありません。
当時は自由な場所取りを行うことが出来ました(翌年度より抽選制になりました)ので、芝沼弘充教授と後輩の渡辺氏は夜行列車(ムーンライトながらで大垣まで行き、乗り換えて彦根まで約9時間程度の旅になった…)に乗って場所取り隊として大会3日前に出発して場所を確保していました。
学校では搬送日となり、搬送を当時後輩だった矢野氏の保護者が仕事関係で搬送費10万円(ドライバー付)という格安の値段で搬送をお願いすることができました。協力をいただきましたことに関しまして感謝の気持ちで一杯です。全てがはじめてという事だったという事もあり、搬送の荷物に関する積み込みも後発隊の出発時間があったので数名が学校に最後まで残って出発しました。積み忘れも沢山あった為、渡辺静意教授が急遽レンタカーを借りて忘れ物と最後の学生達を乗せて出発した経緯がありました。
初出場だったこともありますが、当時は現地の暑さも全く想定していませんでした。なかなか作業も進まず、現地に機体が到着した際にはキャノピー(コックピットを覆う部分)も完成していない状況だったので、現地の機体チェック(フライト前日に行われるチェックでこれに合格しないとフライトできない)も当然パスはしませんでした。
審査委員の方が「明日またチェックしましょう。これがだめだったときはもう飛べません」と言われました。ただ、これが唯一の希望という事もあり、私と小澤先輩と高櫻先輩、そして交流がある東京都立大学MAPPLE OBの長谷川氏と秋元氏の両名による協力もあり、海岸から拾ってきた竹にスチレンペーパーを巻き付け、これを骨組みにしてルミラーで覆うことにより臨時に作成した事により、当日の最終チェックに合格しました。
このレポートについて
このページやフライトレポートでは様々な賛否があるかと思います。中傷をされたり、嫌みも言われたりもしますが、出場には色んな方々の協力があったり、初出場を目指したいチームもあれば、出場が出なかったりしたことにより解散をしてしまったチームなども存在しています。
実は鳥人間コンテストを経験したことによって、未だに使っている知識や技術なども多く存在しています。必ずこの経験はどこかで生かせるはずですし、様々な歴史から学ぶ事や情報によって多くの良い結果に導く場合もあると思い、掲載しています。決して自慢すべき物ではありません。