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高専初の鳥人間フライト(1999)

1999年出場時のフライトレポートです。
主にフライトなどの情報を記録です。

高専初の鳥人間フライト(1999)

 最終チェック合格をいただいた時に、高専として始めてのフライトの実現と同好会の創設者でもある5年生の方々、様々な面から御協力をしてくださった方々に対して感謝の気持ちで一杯でした。今では当たり前のようになっていますが、初出場の時という事もありますので5年生の方々がデザインをしてくださったRTR特製のオリジナルTシャツ(後ろ部分には校章とその校章を円状に取り囲むTokyo Metropolitan College of Aeronautical Engineeringという文字、袖にがんばれ南千住という文字があった)を着て鳥人間コンテストに望みました。
このオリジナルTシャツの背後部分にある校章とその校章を円状に取り囲むTokyo Metropolitan College of Aeronautical Engineeringという文字は今でも自分の中ではとても印象深い部分が多くあり、評判もなかなか良い部分でもありました。

機体チェックと移動を開始

 初出場という事でもありましたが、とてもお世話になった教授で当時は学生指導室におられた田原正夫教授も急遽応援へ駆けつけてくださり、改めて同好会を支持してくださった教授やその他多くの方々に心より感謝すると共に感動しました。
前日の機体チェックが通過することが無く、当日になった最終の機体チェックに合格しました。ただ、すでにフライトの順番待ちの直前だった事もありましたので、チェックが終了後にすぐにプラットホームへ移動をする様に指示がされました。
初出場の翌年からは移動時に機体を置く支持台や治具などといった道具などが登場するのですが、この時にはまだ全く何も用意をしていない状態だったので、移動するごとに全員で炎天下に機体を支えながらの移動となってしまいました。また、実際にはこの移動時にも様々な細かい作業は継続して行われていました。
炎天下での移動という事もあり、脱水症状にならないように保護者の方々(1部の保護者に関しましては心無い行動もありました)が水分補給など自分達の手の届かない部分で協力をしてくださったりと改めて様々な協力があって実現する出場だという言葉には言い表せない感情がこみ上げていました。

いよいよフライトへ・・・

 機体の移動を指示されて開始してからプラットホーム上でのフライトまで約3時間ほどかかりました。この時にも作業や様々な部分において、旧都立大学(現首都大学東京)MAPPLEのOB長谷川さんに色々とお手伝いをしていただいたりしました。

プラットホームプラットホームに徐々に上がっていき、いよいよフライト前の準備に入ります。機体を大きく旋回させて、機体を持つ人間とパイロットがスタンバイ状態になります。風もじっと待っていましたが、ついにゲートオープンが告げられ旗が赤旗から白旗に変わり、緊張は最高になっていました。

 パイロットが声かけを行います。「3・2・1…スタート」と言った瞬間に機体を持ったメンバーと共に走り出した姿は一生忘れられないものになりました。機体がふわっと浮き、初出場機体は琵琶湖の空を舞いました。パイロットも一生懸命コックピットに入り足をかけようとするも前のめりになり機体を起こそうと必死にがんばり、みんなはプラットホーム最前列に並び応援をしました。

機体が機首をあげようとした時に着水し、フライトの記録も36.17mでしたが、初出場のメンバーや協力してくださった方々、私にとっては感動あるフライトです。私達が作った機体が空を舞った…ついに鳥人間コンテストで全国高専62校の中で高専チームとしては初フライトとなりました。

フライト終了後

フライトが終了して出場への気持ちや感動で涙を流しながら応援席へ機体を回収しに駆け出しました。嬉しかったのと機体に対する感情がそうさせたのかもしれない。応援席では保護者も感動してくださり、おめでとうといい感動のあまり涙を流していました。

着水した機体はボートによって応援席から少し離れた場所へ曳航されてきます。当時、骨組みで使用していたカーボンパイプなどの部分は継続して使用をしていく可能性も高く、保護する必要性もありましたので、曳航されてくる機体を見て「カーボンパイプを守れ。緊急排水して解体だ!」と高櫻先輩が言い、一斉に琵琶湖に服装など関係無しに駆け出して入り、みんなで機体を支えて岸に上げて解体をしてトラックへ積載しました。
その後はみんな疲れを忘れて感動に浸っていました。このとき高櫻氏は14日連続で徹夜を行っていましたし、自分も7日間連続で徹夜をしていたという異様な事態にもかかわらず疲れを忘れ感動に涙しながら旧都立大学(現首都大学東京)MAPPLE OBである長谷川氏、秋本氏のところへ行き、「ありがとうございました」と一斉に言った。

長谷川氏は涙を流してくださり、「よくがんばったね」といってくれました。私は鳥人間コンテストには「チームを越えた助け合う」というこの鳥人間コンテストの良さが改めて実感できました。自分のチームの場所に戻って私はすべてが終わってから涙を流してその格好で琵琶湖の中で全員1人1人の胴上げが行われた。スイカも嬉しさのあまりみんなで投げているほど自分を忘れていた。

このフライトと終了後にみんな感動し泣いていた。私は戻ってきてすべてが終わってから泣きました。すべてが終わり、感動という部分ともっときちんとした状態で飛ばせてあげたかったことなどといった悔しさなど色々な思いがこみあげたことがあるのだと思います。

その後には全国高専初の連続出場記録や後輩が大会第3位の記録、チームの記録更新などを達成したりしながら現在に至っています。また、高専チームも誕生たりと高専でも鳥人間コンテストが少しながら認識され始めているのではないかと思っています。

当時の発展事項として…

 出場までは図面なども手作業が多い部分もありました。この頃からせっかく技術があるのに投入しないのはもったいないという事もあり、CAD技術の導入によってきれいな製図や後輩の代には翼型プロット工程の短期化をさせることに成功したりと技術的な部分で開発されました。ただし、CADに関するメリットとデメリットもあり、効率などの向上には大いに貢献する結果となりましたが、作業が余計に遅れたり、逆に間に合う…といった安心感を招く結果にも繋がってしまったとも考えられます。新しいことも大切ですが、その前に基本的なことはきちんと学んでおくべきではないかと思いました。

評判が良かったキャノピー…

 初出場時に現地にある材料で製作したキャノピー(コックピットを囲う部分)が、遠くからみると鷹の様に見えていて、現地で作ったとは思えないほどに意外とかっこいいという評判があったとフライト終了後に判明しました。今となっては現地にあった材料で良く製作が出来たなあっと思っています・・・

初出場時の機体サポート

・初出場時
パイロット:堀田勲先輩(第1代会長)
右翼:岩崎氏(第2期設計者)
左翼:矢野氏(リブ切り担当)
ブーム:高櫻修平先輩(この機体の製作内容をチームで1番把握していた)

今になって感じていること。

 実はこのフライトレポートや自分自身が述べていることについては今でも賛否両論があるのだと思います。心ない言葉も言われたりしましたが、当時はきちんとした状況での製作などを行うことは残念ながらできませんでしたし、色んな問題もあったように思えます。しかし、自分が自負できる部分は、飛びたいという思いやなぜ飛びたいかという理由はきちんと心の中に持っていたという事ではないかと思います。

自分の代では創設者でもある5年生の方々の卒業するまでの間、書類選考で結果的に落選してしまい、最後の最後で出場ができることでの思い出や感動、高専初の記録を達成したい思い、次年に担当した1年後輩達は記録を更新したい思いは今でも心の中に残っていることではないかと思います。ただ、この思いという部分は何年経ったとしても受け継いで欲しいと思いますし、常に意識の中でなぜ鳥人間コンテストに出場するのかといった明確なコンセプトや目標を持って欲しいと思っています。

しかしながら、どのスポーツ分野にも言えることでもありますが、鳥人間コンテストについても若干のセオリーなどはあったとしても、絶対にこうしなければならないという様な「正解」というものも一切ないと自分は思っていますので、それだけは忘れないで欲しいと思います。

概略などに関しましては鳥人間コンテスト 公式ホームページをご覧ください。